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東京高等裁判所 平成12年(ネ)1237号 判決 2000年6月28日

控訴人(原告)

鍾清漢

右訴訟代理人弁護士

香村博正

石井正春

被控訴人(被告)

右代表者法務大臣

臼井日出男

右指定代理人

松村葉子

岡村雅彦

横尾輝男

龍崎博之

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人に対し、二〇八〇万円及び内金一八〇〇万円に対する平成三年三月七日から、内金二八〇万円に対する平成一一年五月八日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

第二事案の概要

本件は、平成二年分の所得税の申告に係る事務を委任した松尾玉廣税理士(以下「松尾」という。)に一八〇五万円を交付した控訴人が、松尾から法律に基づく正当な節税により税金の額は一八〇〇万円で済むと言われ、手数料五万円と合わせて右の金員を預けたところ、松尾は、被控訴人の公務員である宮下誠特別国税調査官(以下「宮下」という。)と共謀し、脱税を行うとともに、右預託に係る一八〇〇万円を着服横領したこと、加えて、宮下の右不法行為により、身に覚えのない所得税法違反の被疑事実につき検察官の取調べを受け、著しい精神的苦痛を被ったことなどを主張し、被控訴人に対し、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償として二〇八〇万円及びこれに対する民法所定の年五分の割合による遅延損害金(一八〇〇万円については松尾の金員領得の日の翌日、慰謝料一〇〇万円及び弁護士費用一八〇万円については本件訴状送達の翌日をそれぞれ起算日とした。)の支払を求めた事案である。

一  基礎となる事実(争いのない事実以外は末尾の括弧内に証拠を掲記する。)

1  不動産の譲渡所得税については、各税務署の資産税担当職員が、各納税義務者ごとに事績書等を作成し、譲渡者名簿に納税義務者の住所氏名を登載し、同名簿に基づき確定申告を促して徴税していた。税理士であった松尾は、平成三年当時、納税義務者が所轄税務署の管轄外に転居するとそれに伴って事績書等の課税資料も転居先の所轄税務署に送付されるが、税務署間で課税資料の受領の有無を確認する手続が採られていなかったことに目をつけ、荻窪税務署の資産税担当の特別国税調査官であった宮下と共謀し、松尾において納税義務者が宮下の勤務する荻窪税務署の管内に転居した旨の虚偽の事実を通知し、宮下において右納税義務者が譲渡者名簿に登載される前に課税資料を抜き取って隠匿廃棄し、譲渡所得を荻窪税務署が把握することを事実上不可能にさせるという脱税行為をしていた。(乙一、三、五ないし七、弁論の全趣旨)

2  控訴人は、松尾に対し、平成二年分の所得税の申告に係る事務を委任し、平成三年三月三日、その旨の委任状を作成した。(甲二)

3  松尾は、川崎市多摩区内所在の控訴人が所有していた土地(以下「本件土地」という。)の譲渡所得に係る控訴人の平成二年分の所得税(以下「本件所得税」という。)の納付を免れさせようと企て、宮下と共謀の上、平成三年二月中旬ころから同年三月上旬ころにかけて、松尾において、渋谷税務署に対し控訴人が東京都杉並区に転出した旨の虚偽の連絡をし、控訴人に係る平成二年分の所得税の申告書(松尾は、右譲渡所得を計上しないで作成し、提出した。)や事績書等の課税資料を荻窪税務署に送付させた上、宮下において、同税務署内においてこれらを抜き取り廃棄した。そのため、控訴人の右譲渡所得については申告がされず、その納付もされないまま推移した。

(乙四ないし六)

4  控訴人は、松尾に対し、平成三年三月六日、現金合計一八〇五万円を交付した。なお、松尾は、宮下に対し、前記3の謝礼として、別件の脱税行為の謝礼と合わせ、同月四日ころから同年五月八日ころまでの間、前後五回にわたり、合計八五〇万円を交付した。(甲一、三、乙四、五、七)

5(一)  松尾は、平成一〇年七月二一日、東京地方裁判所において、平成六年から八年にかけて行った脱税請負及び国税調査官に対する贈賄に係る贈賄、所得税法違反被告事件について有罪判決を受けた。右の所得税法違反の罪となるべき事実は、納税義務者一三名ほかの者らとそれぞれ共謀の上、譲渡所得に係る所得税の申告に当たり内容虚偽の各申告書を提出して右一三名をしてそれぞれ所得税を免れさせたというものである。(乙二)

(二)  宮下は、平成一〇年七月三日、東京地方裁判所において、加重収賄被告事件について有罪判決を受けた。右の罪となるべき事実は、前記3のとおり、所轄税務署から転送されてきた控訴人を含む六名の納税義務者の平成二年分の譲渡所得に係る所得税に関する課税資料を抜き取って隠匿廃棄し、右納税義務者が右譲渡所得について申告をせず、発覚しないよう取り計らい、その謝礼としての現金を受領したというものである。(乙一)

6  控訴人は、所得税法違反の容疑で東京地方検察庁検察官の取調べを受け、平成九年一一月三〇日、控訴人の署名押印のある同日付けの供述調書(以下「本件供述調書」という。乙八)が作成された。

二  争点に関する当事者の主張

1  控訴人

控訴人は、松尾から、本来ならば本件所得税は二五〇〇万円ほどかかるが、法律による節税で一八〇〇万円になると聞かされ、これが正当な税額だと信じ、納税資金として一八〇〇万円を松尾に預託し、税務代理の報酬として五万円を支払ったものであるから、控訴人に脱税の意思がなかったことは明らかである。ところが、松尾と宮下は、共謀の上、右の一八〇〇万円を着服して横領(あるいは詐取)し、控訴人に同額の損害を生じさせたものであり、これは宮下の違法な職務執行に当たるから、被控訴人は、控訴人に対し、国家賠償法一条一項に基づき、控訴人に生じた一八〇〇万円の損害を賠償する義務を負う。

また、控訴人は、右のように脱税の意思がなかったにもかかわらず、宮下の不法行為により、一か月にわたり所得税法違反の被疑者として東京地方検察庁検察官の取調べを受け、著しい精神的苦痛を被った(その際、本件供述調書が作成されたが、右検察官は、黙秘権の告知もせず、控訴人の弁解を取り上げることもなく、予断と偏見に基づく差別的発言をし、怒鳴り脅すなどして本件供述調書に署名押印させたものであるから、本件供述調書は、任意性も信用性もない。)。かかる精神的苦痛の慰謝料は一〇〇万円を下らない。

加えて、控訴人の弁護士費用に相当する損害は、一八〇万円とするのが相当である。

2  被控訴人

控訴人は、松尾が本件所得税をほ脱させることを容認した上で、松尾にその具体的方法を委ね、その報酬を含め、あるいは、その全額が松尾の報酬に充てられても異存はないとの意思の下に、松尾の要求に従い合計一八〇五万円を供与したものであり、控訴人が使途を定めて松尾に寄託した金員は存しない。

また、松尾は、宮下に対し、控訴人の脱税に協力することを依頼し、これにより宮下は、控訴人の脱税が発覚しないよう工作し、控訴人を含む六名の脱税に対する協力の謝礼として、松尾から八五〇万円の賄賂を収受したものであるから、松尾と宮下の両名が、控訴人から一八〇〇万円を横領した事実はなく、その旨の共謀も存しないことは明らかである。

なお、本件供述調書の作成に際し、検察官から控訴人に対し、脅迫や誘導等がされたことはなく、任意性及び信用性が十分認められる。

3  争点

<1> 控訴人は、松尾が脱税をすることを知らないで松尾に一八〇五万円を交付したか。

<2> 松尾が控訴人から受領した現金を着服したことにつき、松尾と宮下の間に共謀があったと認められるか。

<3> 控訴人が所得税法違反の被疑者として検察官の取調べを受けたことにつき、被控訴人に不法行為責任があるといえるか。

第三争点に対する判断

一  争点<1>について

1  控訴人は、陳述書(甲六、八、一二)及び本人尋問において、本件所得税を申告して納付すべき税額を納付するという意思で松尾に税務申告に係る事務を委任したものであり、脱税の意思は毛頭なかった、したがって、松尾に対しては、本件土地の売却による譲渡所得について正当な節税を依頼した、これに対し、松尾からは、本件所得税の額は本来であれば二五五〇万円余になるが、法律に基づく節税により一八〇〇万円で済むと聞かされ、そのとおり信じ、松尾に対し、前記第二、一4のとおり、納税資金一八〇〇万円を預託するとともに、手数料として五万円を支払った、なお、松尾に一八〇〇万円を預けた後も、納付すべき税額が不足するときは同人が追加を求めてくるものと思っていた、納期限である平成三年三月一五日の後、控訴人の妻が電話で松尾に尋ねたところ、納税は済んだと聞き安心していたと供述している。

2  これに対し、控訴人及び松尾の供述調書には、以下のように、右1の控訴人の供述と相反する記載がある。

(一) 控訴人の検察官に対する本件供述調書

(1) 控訴人は、本件所得税の確定申告事務を松尾に依頼して正規に納めるべき税金を安く済むようにしてもらい、本件所得税を脱税した。

(2) 松尾は、控訴人に対し、本件土地の譲渡所得に係る納付すべき税額は、概算で二三一〇万円になるが、実際に支払っていない費用を計算に入れれば八〇〇万円くらい税額を安く済ませることができる旨を述べたので、控訴人も、松尾が架空の費用を計上するなどして不正に税額を安く済ませようとしていることを分かっていた。

(3) 控訴人自身、税金を安く済ませてもらえるよう松尾に依頼してすべてを任せたものであり、大変悪いことをしたと深く反省している。

(二) 東京国税局調査官の作成に係る控訴人からの平成九年一一月二一日付け聴取書(以下「本件聴取書」という。乙九)

本件土地の譲渡所得につき税務申告がされていないことについて、松尾から税金が安くなると持ちかけられ、それに乗って不正な申告をしたことは不徳の致すところであり、申し訳なく思っている。

(三) 松尾の検察官に対する供述調書(乙四)

(1) 松尾は、控訴人から、納める税金の額を正規の金額より安くして欲しいという意味の依頼を受け、これを引き受けた。

(2) 松尾は、控訴人に対し、本来なら二六〇〇万円くらいの税金を支払わなければならないが、税金分、手数料などすべて含めて一八〇〇万円で手続をしてあげますよと言ったが、正規の税額が二六〇〇万円という計算をしておきながら、一八〇〇万円以内の納税しかしないという話であるから、これが脱税行為であることは明らかで、控訴人もよく分かっているはずであった。

(3) 松尾は、控訴人から、本件所得税につき不正な申告をしてあげることに対する謝礼などとして一八〇〇万円を受け取った。

3  ところで、控訴人は、検察官は、本件供述調書を作成するにつき、控訴人に対し、黙秘権を告知せず、脱税だと頭から決めてかかり、机をたたいて大声で怒鳴り、真実を訴えても耳を貸さず、意に反することを言えば「中国人は嘘つきだ」などと差別的な発言をするなどした、作成された調書に誤りがあったことからその訂正を求めても、「中国人、福建人はよく嘘をつく」、調書を書き直すことはあり得ないなどと言って署名押印を強要したこと、控訴人は、過酷な取調べに疲労困憊し、体調が思わしくないこともあって、恐怖と混乱から逃れるため、事実と相違するにもかかわらず本件供述調書に署名押印したこと、また、国税局調査官も、連日の検察官の取調べに絶望的になっていた控訴人に対し、一方的に作成した書面を読み上げ、精神的に混乱していた控訴人は、それが自分にとっていかに不利な内容であるかを十分に判断できず、どうせ自分の言い分は認めてもらえないと思い、言われるがまま本件聴取書に署名してしまったことなどを供述している。

しかし、検察官が、右のような過酷な対応に終始しなければならない理由を見いだすことはできないし、本件供述調書には、今回の取調べを受けるまでは松尾が一八〇〇万円を税務署に納税してくれていると思っていた、一八〇〇万円に不足があれば後日支払うつもりであったが、その後何も話がなかったので申告が終わったと思っていたなど、控訴人に有利な事実も記載されていることからすると、検察官から右のような取調べを受けたとの控訴人の供述は疑わしいといわざるを得ない。さらに、国税局調査官から聴取を受け本件聴取書に署名した経緯に至っては、強制・誘導など意に反する署名をさせられたことを窺わせる事情を見いだすことはできない。

したがって、本件供述調書の内容は、本件聴取書と一致しており、控訴人が脱税の認識を有していたことについては松尾の検察官に対する供述とも概ね一致しているのであるから、本件供述調書及び本件聴取書につき、任意性に疑いがあるということはできないし、信用性が低いということもできない。

4  さらに、以下のとおり、脱税の認識を否定する控訴人の供述の信用性を疑わしめる事情が認められる。

(一) 控訴人は、松尾から、本件所得税の税額は二五五〇万円余になるところ、適法な節税により一八〇〇万円で済むと聞かされ、そのとおり信じたと供述している。そうすると、控訴人は、本来の税額が二五五〇万円余であることを認識していたことになるが、適法な手段により八〇〇万円近く節税されるとすれば、その節税策を詳しく聴くのが通常であると思われるところ、控訴人は、本人尋問において、松尾から聴いた節税策について具体的に説明していないし、松尾の検察官に対する供述調書(乙三、四)には、控訴人に適怯な節税である旨を説明したとの記載は全くない。したがって、松尾から控訴人に対し、適法な節税である旨の話があったという控訴人の供述は、疑わしいといわなければならない

(二) また、控訴人は、口座振替により国税を納付する手続を採り、現にそのような方法で国税を納付していたものであるが(乙八、一〇、控訴人本人)、そうであれば、本件所得税について何ゆえそのような方法によらず、預金を払い戻して松尾に現金を交付するという迂遠な処理をしたのか疑問が残る。この点につき、控訴人は、松尾からそのように求められたというだけで、合理的な説明をしていない。この事実に照らすと、控訴人が松尾に一八〇〇万円(甲三によれば、他の五万円は税務代理の報酬と認められる。)を交付したことは、全額を所得税として納付するよう依頼する趣旨ではなかった、すなわち、少なくとも、右の交付に係る一八〇〇万円には、納付する所得税のみならず、松尾に対する脱税の報酬が含まれていると見るのが合理的である。

(三) さらに、控訴人は、妻が電話で松尾に納税の事実を尋ねたところ、納付を了した旨の返答を得たので安心していたと述べ、それ以上松尾に領収証書の交付を求めるなどはしなかったと供述する。しかし、一八〇〇万円にも上る本件所得税の納付に関し、納付が終わった旨の松尾の話のみで安心し、税務署の発行した領収証書等の交付を求めようとしなかったというのは、いささか軽卒に過ぎ、たやすく採用することができない。むしろ、右の交付に係る一八〇〇万円には脱税の謝礼が含まれているからこそ、納付に関する領収証書の交付を求めなかった可能性が高いというべきである。

5  以上の認定によれば、本来ならば本件所得税は二五五〇万円ほどかかるが、適法な節税により一八〇〇万円にすることができると聞かされ、一八〇〇万円が正当な税額だと信じてこれを松尾に預託したものであり、控訴人に脱税の意思はなかったとの控訴人の供述部分を信用することはできず、この供述に沿う控訴人の主張事実を認めることはできない。そして、前記2の各証拠並びに3及び4の認定を総合すると、控訴人は、松尾が脱税という手段により相当額の納税を免れさせてくれるものと思い、税務署への納税及び脱税に対する謝礼と合わせ、松尾に一八〇〇万円を交付したと推認することができる。

二  争点<2>について

以上のように、控訴人は、松尾に対し、納税及び脱税に対する謝礼と合わせて一八〇〇万円を交付したものであるが、結果的に松尾が納税の手続を採らず右の一八〇〇万円を全額取得したものである。そうすると、松尾は、右の一八〇〇万円のうち、謝礼を除いた部分を着服したと解する余地があるから、仮に、宮下が右の事実を知悉していたとすれば、松尾と宮下は、共謀して一八〇〇万円を着服したと認め、宮下についても控訴人に対する不法行為が成立する可能性がある。

しかしながら、松尾と宮下の供述調書(乙三ないし七)を仔細に検討しても、宮下は、松尾の依頼を受け、控訴人に本件所得税の納付を免れさせるため、荻窪税務署内において控訴人に係る課税資料を抜き取って廃棄したものであり、その謝礼として、松尾から他の脱税分を含め、合計八五〇万円を受け取ったことが認められるだけである。この事実によれば、宮下は、自己の行為により控訴人が本件所得税の納付を免れ、相当額の謝礼を受け取ることができることを認識していたことは明らかであるが、松尾が控訴人から納税のための資金を含めて一八〇〇万円を受領していたこと、松尾が右の一八〇〇万円全額を着服することなどを認識していたと認めるに足る証拠はない。そうすると、松尾が控訴人から受領した一八〇〇万円全額を着服するにつき、宮下に右着服の認識があったと認めることはできないから、この点について宮下と松尾の間に共謀があったと認める余地はないといわなければならない。

したがって、被控訴人の公務員である宮下が、松尾と共謀の上、控訴人から受領していた一八〇〇万円全額を着服したという不法行為があったと解することはできないから、そのことを理由とする控訴人の被控訴人に対する国家賠償請求は理由がない。

三  争点<3>について

控訴人は、宮下の不法行為により、所得税法違反の被疑者として東京地方検察庁検察官の取調べを受け、著しい精神的苦痛を被ったと主張する。

しかし、前記一のとおり、控訴人は、少なくとも本件所得税の一部については脱税の認識があったことが認められるから、所得税法違反の被疑者として検察官の取調べを受けたのはやむを得ないことであったというべきである。したがって、控訴人が検察官の取調べを受けたのは、松尾に脱税を依頼した自らの行為に基因するものであるから、右の取調べにより控訴人が精神的苦痛を受けたとしても、それにより被控訴人が控訴人に対し不法行為責任を負うことはあり得ない。

四  結論

以上によれば、控訴人の請求は理由がなく、これを棄却した原判決は相当であるから本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法六七条一項、六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 塩崎勤 裁判官 小林正 裁判官 萩原秀紀)

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